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未来派の概要
未来派(フトゥリスモ、フューチャリズム)とは、過去の芸術の徹底破壊と、機械化によって実現された近代社会の速さを称えるもので、20世紀初頭にイタリアを中心として起こった前衛芸術運動。
未来派の概要1909年にイタリアの詩人フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ (Filippo Tommaso Marinetti; 1876-1944)によって起草された「未来主義創立宣言」がその発端である。よりセンセーショナルにするため前世紀の有名な共産党宣言に倣い、題名には「宣言」(Manifesto)が使われた。内容は前年に出版されたジョルジュ・ソレルの「暴力論」に影響を受けており、あらゆる破壊的な行動を讚美する非常に過激なものだった。未来派の思想は「未来主義」と呼ばれることもある。 産業革命以降、ヨーロッパでは中世の封建社会から資本主義社会への転換が起こり、それに伴い様々な社会情勢も劇的な変化を遂げた。また、科学技術の進歩により戦争に人間を大量に殺戮する「兵器」が投入され、近代戦争へと変容した。旧来の価値観の変化と、それに伴う社会不安を背景に、19世紀末頃より「表現主義芸術」が興隆し始める。 未来派は、表現主義芸術の影響を受けつつも、もっと純粋に肯定的に、近代文明の産物や、機械の登場によって生まれた新たな視点を、芸術に取り入れようとした。画家達は、今で言う高速撮影の連続写真のように、主題となる対象物の動きを一枚の絵に同時に描くことで、運動性そのものの美を描こうとした。マリネッティが「動力派」というネーミングも候補にしていたことから、未来派が志向していたところがわかる。ルイジ・ルッソロは、ノイズミュージックの原点とも言えるミュージック・アート「騒音芸術」を創造した。この運動に作曲家のジャチント・シェルシは最年少で加わった。 未来派の芸術家たちの一部はやがて、全体主義に感化されファシズムの政治運動と結びついていく。首唱者のマリネッティ自身も、右翼行動団体「戦闘ファッシ」(イタリアファシスト党の前身)の一員だった。しかし、1920年5月にベニート・ムッソリーニが「国王及び教皇の追放」という未来派の要求を排した事などから、マリネッティを始めとする未来派の多くが党から脱退した。1922年には共産主義の文化組織が主催する未来派の展覧会が複数開かれるが、ムッソリーニ政権が誕生した1923年にマリネッティは未来派とファシズムの友好関係を謳う声明を発表し、1924年に再びマリネッティはファシスト党へ再入党する。彼らと党は、好戦的で戦争や破壊を新しい美とする部分の認識で共通していた。その過程において、思想的矛盾やファシズム政党への反発などにより芸術家達の内部離反を招き、後期には未来派は「退廃芸術」とイタリア国家から看做され活動が制限され、彼らの集団は崩壊していく。 未来派の芸術運動は、ロシアでも起こり、その後のロシア構成主義芸術や、ダダイズムの画家達、現代音楽や演劇・バレエなどに伝播し、様々なジャンルの前衛芸術家達に影響を及ぼした。一部の芸術家がファシズムと結びついたことで、評価を受けなかった時期もあったが、政治的な立場が異なったアントニオ・グラムシなどからの評価や、現代においては、工業的テクノロジーを芸術に取り入れた先駆性の部分が再評価されている。 日本にも未来派の唱える芸術運動は波及し、美術家や文学者に影響を与えた。主なものとしては、大正9年(1920年)に未来派美術協会を設立し独自の美術表現をした普門暁(ふもん・ぎょう;1896-1972)などがある。 「Wikipediaより出典 - Article - History - License: GFDL」
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